今、Gotcha / Rosapark - Punks Against G8 split CDに掲載する声明を書いている最中だが、なかなかまとまらないので、とりあえず思いついたことを書いてみることにする。意味不明なところもあるかもしれないが。
G8の問題点として、「グローバル資本主義」の象徴、「トップダウン」の象徴、「贅沢三昧」の象徴があげられることは珍しいことではない。確かに、これらはG8の構成要素を成すものであり実際に正しい。しかし私は野蛮なG8の「根底要素」を成すものとして、「壁」の象徴がそこにあると考えている。言うまでもなく、「壁」は一切の視界と感覚を奪ってしまうものだ。
私は、グローバル資本主義に対する闘いにおいて最も大事なことは、「私たちのポテンシャル (潜在性)」を信じることにあると思っている。なぜなら、それは、"US" (私たち) と "THEM" (やつら) の関係性、及び私たちの「たち」の意味を明らかにするものだからだ。これは、私たちが私たちの「たち」をいかに「仲間」として定義できるか、ということでもある。「仲間とは何ぞや」ということである。私たちは「仲間とは何ぞや」ということを不明瞭にしたままこの闘いに参加させられていることが多分にしてある。
そうなのだ、これが「壁」の正体なのだ。
言っておくが、私はそのことがダメだ、と言っているわけではけっしてない。私はこの闘いが「仲間とは何ぞや」を常に自問しながらの闘いになるなら可能性はあると思っている。それがない闘いは、その内部に「壁」の再生産をもたらすこととなるだろう。グローバル資本主義に対する闘いとは、「壁」を壊し、「壁」の向こう側の「仲間」に会いにいく闘いでもあるからだ。
ご承知のとおり、グローバル資本主義に対する闘いは多様者の闘いとして知られている。それは「闘わない人」・「闘う人」の区別がないということである。またそれは「権力に賛成する人」・「権力に反対する人」をいかに繋ぐかということである。このことを踏まえて、私たちの共通の問題として、以下のようなことが言えると思う :
「権力には賛成できるが、自分には賛成できない」
「権力には反対できるが、自分には反対できない」
そうなのだ、これもまた「壁」の正体なのだ。
つまり私たちは、自分を「信じ」、自分を「見つめる」勇気がない。私にとって、この勇気を取り戻すことは、「仲間とは何ぞや」を理解するのに必要なことだ。そして私たちがこの勇気を取り戻し、互いに繋がるときG8の「壁」は真に崩れるだろう。
カギは「グローバル」には「グローバル」を、である。
一番難しいことかもしれない。だからこそ私は、このPunks Against G8の声明に「挑戦」という思いを込めるつもりだ。
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